フルスト原遺跡とウタキ(御嶽)(沖縄県石垣市・2018年6月訪問)


彗星会議に出席するため石垣島に行きました。あまり訪れる機会もないだろう場所なので空いた時間を使って遺跡見学もしようと、事前に調べておいたフルスト原遺跡を訪問しました。

フルスト原遺跡は、沖縄県石垣市大浜にあるグスク(城)遺跡で年代的には14〜16世紀の中世城郭遺跡ということになるのでしょう。遺跡までは石垣市の中心街のホテルからタクシーで行きました(1300円)、運転手さんも10年ぶりに訪れる場所だそうで最初に行った運転手さん記憶の場所は民間会社の敷地の中のような場所(実はここで正解だった)でしたので途中の案内板にあった北入口に向かいました。途中史跡碑を発見したので石碑からは近かろうと思い、そこでタクシーを降りて歩いて行くこととしました。


石碑の裏にはぽっかりと横穴が開いていて、まさかここが遺跡入り口?あとで調べたらこの横穴は旧海軍飛行場の端にあたるこの場所で空爆から逃れるために掘られた防空壕とのことでした。この穴は格納庫として利用されていたとのこと。(旧海軍厚木基地と同じですな。)

ここには遺跡への案内板もなく多分この石碑の裏山に遺跡はあるはずなのですが、全く道はありません。いたしかたなく川沿いの来た道を戻って南側の入り口を探しました。


遺跡は写真のような珊瑚起源の石灰岩段丘(およそ高さ20m)の上にあります。この段丘の上に出たのですが南側入り口が全くわからず、迂回して北側入り口に向かうこととします。


入り口に向かう道周辺には石垣牛を飼う牛舎がたくさんあります。


結局遺跡の周囲を2/3周歩いて、40分かけてようやく北側入り口に到達しました。この道が昼なお暗い密林の道、カラスの集団が後を追うようについてくるのでとっても不気味です。太平洋戦争中は軍用飛行機を移動するための通路だったそうです。


看板にはこの先の広場に遺跡ありとのこと、で、10分ほどでそれらしい場所に出たのですが、雑草が生い茂りヒルもハブもいる場所なのでとても近寄ることができません!ここは諦めて先に進みます。


おーありましたがな、広い広場と遺跡が!珊瑚起源の石灰岩を積み上げた屋敷囲いの石垣が点在しています。15基の石塁遺構が発見されていますが、第二次大戦中この遺跡の石垣は隣接する海軍飛行場補修のために利用されたそうで、石垣は平成に入ってから復元されたものです。


標高20m前後の丘陵上に築かれた14世紀前半から16世紀にかけての広さ約12haの集落遺跡。石塁遺構が連結していて沖縄本島で見られるグスク構造に類似していますが、近年の発掘研究からは城郭としての機能よりも集落としての要素が強いとされているそうです。


14世紀に始まり15世紀に最盛期を向かえ16世紀初頭に突然放棄されるこの遺跡は、古くからオヤケアカハチの居城跡であると言い伝えられてきました。石垣の豪族オヤケアカハチ(オヤケとアカハチ兄弟かもしれない)は、1500年に当時中央集権化を進めていた琉球王国に反乱を起こします。


3000名の王府軍が送られ、オヤケアカハチの反乱は鎮圧されます。琉球王国の史書・球陽にはオヤケアカハチが「嶮岨を負い、大海に面して」陣を構えたことが記録されています。上の写真のように遺跡は宮良湾を望む高台にありその活動期間からも、まず間違いなくオヤケアカハチの城郭に囲まれた集落であっただろうと想像します。


遺跡南側出口付近。この写真の奥が旧石垣島空港、旧海軍石垣島空港です。今回は遺跡への入り口がさっぱりわからず迷いまくりました。しかしそのおかげで良いものも見つけることができました。


ゆうなの花、海岸近くにたくさん自生していて今が咲き始めの時期だそうです。


実から花が咲いている??たくさん円形の緑色の実?がついていました。少し調べましたが木の名前はわかりませんでした。


迷って遺跡の段丘下の道を歩いている時、鳥居のある小さな森が並んで2つ見えてきました。本州なら古墳かな?というところ何か遺跡と関連するものかもしれません、迷いついでに近寄って見学してみます。


ウタキ(御嶽)でした。八重山ではオンと発音するとのこと。これは大城御嶽(ウフスクオン)フルスト原遺跡のふもとにあります。ウタキ(御嶽)は、ノロ(巫女)が神託を受ける神聖な場所なので村人以外、特に男は進入禁止。鳥居は明治の皇化政策のためで、沖縄本島では撤去したものが多いそうですが、八重山は多くでそのまま残っているそうです。このウタキのすぐ隣には潤水御嶽(ミズオン)があり、市街地の大浜地区にある崎原御嶽(崎原オン)まで、歩いて15分ほどの間に6カ所のウタキ(御嶽)があります。


1500年のオヤケアカハチの反乱鎮圧後、フルスト原遺跡の街は放棄されます。琉球王朝による厳しい処分が行われていますから反乱を起こした住民は追放に近い処分をうけたのでしょう。その後、現在の大浜地区を中心に沿岸部に大浜村ができ人口も1300名ほどの人が居住していました。

しかし、1771年明和の大津波が押し寄せ、この地域は壊滅的被害を受け数十人しか生き残らなかったと記録されています。再びほぼ無人となったこの地域を復興するために琉球王朝は波照間島の長石村の村民を村ごと強制移住させます。移住させられた人々は故郷の神を分神してフルスト原台地の上に祀りました(大石御嶽)。もともとあったウタキ(御嶽)もすべてフルスト原台地の上に移転し津波被害を避けられるようにしたようです。

徐々に村が復興するとともに生活には不便な台地の上から便利な段丘下の沿岸部に再び居住地が増えるようになり、フルスト原台地の上に移転していた御嶽は旧跡の地にすべて戻されました。(時期は異なるようですが)

第二次大戦中は石垣島では地上戦は無かったものの山中に疎開させられ、多くの人がマラリアで命を落としたそうです。

1500年以前に住んでいた人たちの御嶽(クルセオン、サキバルオン)明和の大津波までに住んでいた人たちの御嶽(ミズオン、ウフスクオン)強制移住で来た人たちの御嶽(大石御嶽)とそれぞれの御嶽が引き継いだ人々によって残されたことがこの狭い場所に6カ所もの御嶽が現存する原因のようです。

明和の津波はこの地域では20-30mの高さだったようです、フルスト原の台地は標高25m前後もしかしたらフルスト原遺跡の街は、数百年周期で繰り返す津波の伝承を意識して作られた街だったのかもしれません。

フルスト原遺跡を巡って、戦争と災害、これを避けられれば明るい未来が待っているのだということ、人は忘れるから歴史から知り学ぶことが大切だなと改めて思ったのでした。


ホウオウボク(たぶん)の赤い花が印象的でした。

フルスト原遺跡、オヤケアカハチの乱についてはネット上に詳しい解説がたくさんありますので、興味のわいた方は、そちらも参考にしてみて下さい。

 

 

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