中央アジアの国ウズベキスタンに2019年8月の夏休みにツアーで出かけました。憧れのシルクロードの遺跡、イスラーム様式の青い街、旧ソ連邦の国の今を見てみたいということで、今回はこの地域に強い西遊旅行社の7泊9日間のツアーで出かけてみました。
<旅程1日目>
<成田からソウル仁川空港経由アシアナ航空便で首都タシケントへ>
成田発13時20分の便に乗り7名で出発、ソウルで福岡、関西からの参加者および添乗員さんと合流してタシケントに向かいます。成田からの直行便は週2便しかないので毎日便のあるソウル経由の方が一般的なようです。ソウルからタシケントまでは約7時間、現地時間の20時ごろ到着します(日本との時差は4時間)。アシアナ航空のサービスは可もなく不可もなく普通でした、でも日本語の映画が少ないので時間を持て余すかもしれません。
<タシケントからサマルカンドへ>
<タシケント、ラマダホテル>
夜タシケント空港に到着したら、空港の両替所でドルを現地通貨スムに両替しておきます。ほとんどのお店やスーパーなどでは現地通貨スムしか使えません。カードもタシケント市内の大きな店以外は使えるお店はありません。少し多めに両替した方がいいです。ホテルで両替できるだろうと少なめに両替したらサマルカンドには両替所があまりなく、ホテルでは両替営業時間があってやむなくカードのATMでキャッシングしました。(ATMはどのホテルにも、スーパーにもありましたこの辺の事情はロシアに似てます。)(政府が闇両替所を一掃したら、両替できるところが減って不便になってしまったとのことでした)
<旅程2日目>
タシケントのホテルに一泊して翌朝、専用バスですぐにサマルカンドへ向かいます。
<道路標識>
道すがら道路標識はほとんどありませんでしたが、唯一見かけた大雑把な標識?タシケントからサマルカンドに行って、そこから陸路アシガバッド(トルクメニスタン)キエフ(ウクライナ)マザーリシャリーフ(アフガニスタン)カラチ(パキスタン)まで行けるんですね〜
<小さなバザール>
道路脇には所々小さなバザールがあります。車は白いシボレーが圧倒的に多く走っていました。理由はシボレーの現地生産工場がウズベキスタンにあるので安いからとのことでした。
<コウノトリの巣>
コウノトリはウズベキスタンの繁栄を表すシンボルだそうで、様々なモチーフに使われています。
<シルダリヤ県の標識>
県境には検問所が必ずあって撮影禁止でした。どの程度機能しているのかはわかりませんが観光バスは無チェックで検問所を通過できます。
<ガソリンスタンドにあった露天>
タシケントからサマルカンドまでは約320Kmあるので、途中小さなバザール付きのガソリンスタンドで休憩をとりながら進みます。露天では魚の干物を売ってました、ナマズみたいな淡水魚だそうでビールにあうとのこと。
<ナンと様々なドライフルーツのお菓子など>
でかくて丸い少々固めのナン(ノン)はどのお店でも売ってます。地球の歩き方にはこのナンは一年持つと紹介されているそうですが、現地ガイドさんによると、それは話盛りすぎ、せいぜい数週間、硬くなって食べられませんよ〜とのことでした。
<ガス管>
途中小さな村々を通過していきますが、乾燥した大地での灌漑農業が行われていて広大な綿花や果樹の畑が広がっていました。村の中で見かける黄色いパイプはガス管だそうで地表にむき出しで配管されています。地下資源、特に天然ガスが豊富にあるので給油スタンドはLPガスのスタンドとガソリンのスタンドが同じくらいの数あります。
<ロバの荷車>
田舎では現役のようでロバの荷車を使う姿をよく見かけました。
<サマルカンドの門>
ティムール帝国時代、タシケントとサマルカンドを結ぶ道の関所となっていた場所。ここをすぎればいよいよサマルカンドです。
<サマルカンドの新市街>
タシケントほどではありませんが、新市街の建物はロシア風で旧ソ連の面影が残っています。ウズベキスタンの文字はかつてはキリル文字を使っていましたが現在は公式にはアルファベットで表記するように改められました。しかし、田舎の店の看板などはキリル文字を使用しているかアルファベットと併記されている場合がほとんどでした。
<サマルカンドの歴史>
*紀元前10世紀ごろからイラン民族系オアシス都市として発展。
*紀元前327年、アレクサンダー大王の東方遠征軍が到達、ソグディアナ攻防戦で執拗に抵抗したソグド人の都市「マラカンダ」として記録される。
*紀元8世紀初頭ごろまでは都市連合国家ソグディアナの中心都市として栄える。(後漢書、玄奘三蔵、等の記録)
*712年 ウマイヤ朝アラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まる。ブハラと並びこの地域の中心都市となる。支配する王朝はその後いくつも変わるが商才に長けたソグド人の町として数世紀にわたって栄える。
*1220年 モンゴル軍によって旧サマルカンドは徹底的に破壊される。
*1333年 旅行家イブン・バットゥータが訪れ、荒廃した街を記録する。
*14世紀末〜15世紀 ティムール朝の首都として復興、繁栄。
*16世紀 諸王家による争奪攻防。
*18世紀 外部諸部族、内部諸政権の対立等で荒廃
*1868年 ロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入される。
*1924年 ウズベク・ソビエト社会主義共和国の首都となる
<レストラン・カリムベック>
ここで最初のお昼をいただきました。メインは「ラグマン」スープ麺です。美味しかったのですが、食べるのに忙しく写真撮るの忘れました!ここで、最初のビールを注文、10,000スムでした。日本円に換算すると130円!天国です。
<ウルグ・ベク天文台跡の博物館>
サマルカンドで最初に訪れたのはウルグ・ベク天文台博物館です。ウルグ・ベクはティムール朝の第4代君主ですが、天文学者、数学者、文人としての評価が高い人物です。この天文台はマドラサ(学校)での天文研究をサポートするために1429年に完成した半径40.4mの巨大壁面六分儀を備えた当時世界最大級の天文台でした。
<地下にある六分儀計測部が入っている建物と天文台の基礎>
天文台はウルグ・ベクが息子によって処刑(斬首)されたのち1449年に大部分が破壊され、ロシアの考古学者ヴァシーリー・ヴィヤトキンによって1908年に発見されるまでまったく知られていませんでした。残念ながら天文台は復元されておらず、円形三階建て天文台建物の基礎と壁面六分儀の計測部分が残され保存されているのみです。そのためこの天文台と六分儀の概要は遺跡を見ただけではさっぱり理解できませんでした。
<地下にある六分儀本体>
先の写真の建物の中に保護のための屋根で覆われた六分儀があり、見学することができます。六分儀といっても壁面六分儀という特殊な形式の太陽を観測するためのもので星を観測していたわけではありません。地震等の影響を受けないように岩盤を堀込んで作られています。これを旅行社のパンフレット等では「地下から見つかった六分儀の基礎」と説明している物が多く誤解を招きやすいのですがこの上に何か機械があったわけではなく、これそのものが六分儀の本体です。観測者はレールの脇にある階段に立ち、レールに投影された太陽の像を観測していました。
<天文台の想像復元模型>
博物館の中にあった復元模型です。屋上には渾天儀があり星はこちらで観測していたのでしょう。屋上の正面にある丸い穴が太陽の光を地下の六分儀に導くピンホールでした。
<天文台と壁面六分儀の断面図>
六分儀のレールは子午線上(南北線上)に、歪みや温度の影響を受けないように地下の岩盤を掘り抜いた上に正確に設置されました。天文台屋上の穴から入った太陽の光は地下の六分儀計測部大理石のレール上にピンホールカメラの原理で太陽の像を結びます。観測者はこれを観測して太陽の南中時の正確な高度をおそらく角度の秒単位で計測することができたはずです。その観測値と三角関数を使い1年の正確な長さを測定したのでしょう。
サマルカンドでは緯度と地軸の傾きの和が約63度なのでレールの円弧の角度は63度以上は必要ありません模型図では円弧が屋上まで続いていますが、高い部分の円弧の存在は不明で、あったとしても使用はできず装飾だったと思われます。ですから四分儀(90度の円弧)よりは六分儀 = 60度の円弧を使う計測器の方がより正しく、天文史ではこの構造を壁面六分儀と呼んでいます。
<誰もいない六分儀遺跡裏(南)にて太陽の子午線通過確認中?>
誰もいない六分儀を覆っている建物の裏手が南、おそらく当時の天文台の正面はこちらだったはずなので、太陽観測中の図?の記念撮影をしておきました。(天文台の構造を理解したのは帰国してからですが・・・)
<アフラシヤブの丘遺跡>
次に訪れたのは、アフラシヤブの丘遺跡と博物館です。
アフラシヤブの丘は、紀元前5世紀ごろから都市が形成されソグド人の城壁都市国家として13世紀まで繁栄した旧サマルカンドの中心地です。遺跡からはアレキサンダー大王時代のコインや土器などが発掘されるなど、出土物からは東西文化の交流地点として大いに栄えたことがうかがえます。
しかし、この地は13世紀にモンゴルの襲来で徹底的に破壊され、街は放棄されてしまいます。その後ティムールがサマルカンドを復興しますが、彼は街を南西の郊外に再建したためアフラシヤブは放棄されたまま、現在は写真のように何もない遺跡の丘となっています。
<アフラシヤブ博物館、王宮の壁画>
7世紀の王宮を飾っていた壁画が展示されています。シルクロードの交易で栄えたことを裏打ちするように、壁画の中には中国や朝鮮からの使者なども描かれています。
付属のミニシアターでは、今年から日本語版の解説付き映像も流しているのでわかりやすく見学できました。
<鳥葬用の棺>
8世紀ウマイヤ朝の侵入によってイスラーム化する以前のソグド人王朝はゾロアスター教を信望していたためそれに関連する遺物も沢山発掘されているようです。
遺跡の丘は博物館の裏にあり自由に見学できます。崩れた城壁等を見ることができますが説明板もなく殺風景な場所です。ただ地上に土器の破片が大量に落ちていてかつての繁栄を少しうかがい知ることはできます。
<サマルカンドの旧市街>
アフラシヤブの遺跡の丘から市街の中心にある今晩のホテルに移動します。
<レギスタンプラザホテル>
宿泊したホテルは、4つ星、旧プレジデントホテル・レギスタンプラザホテルでした。サマルカンド市街の中心にあるでかいホテルで、ツイン170ドル〜とのこと。こんな便利で豪華そうなホテルにツアーで泊まるのは初めてです。西遊旅行社なかなかやります。大手のちょっとだけ安いツアーにしなくてよかった?
<グル・アミール廟と月と木星>
ホテルからは歩いていけるのでちょっと夜の散歩に出かけました。ティムール一族の眠るグル・アミール廟の後ろには月、木星が見えていて雰囲気を盛り上げてくれていました。(この日はペルセウス座流星群の極大日に近く、散歩中に火球を1個目撃できました。ラッキー!)
<月とティムール像>
ウズベキスタンの英雄ティムールの遺体はソ連の調査団によって調査され、コーカソイドの特徴が加わった容貌と赤いひげを蓄え当時としては大柄な身長170cmだったことがわかっています。この像のような姿だったのかもしれません。それにしても、旧ソ連圏の国はどこも銅像が好きですね〜。
続きは下記ページへ
ウズベキスタン旅行記(その2・サマルカンド〜シャフリサブス)
ウズベキスタン旅行記(その3・ブハラ〜ヒヴァ〜タシケント)